深海にて。

揺ら揺らと仄暗い深海にて。
行く先もなく身を任せ漂う。
此処は良い。心地が良い。
永久の静寂が全てを宥めている。

自分の存在さえ考えずに済む。
かつて私が人間であった頃より
遥かに自分らしい。
海底にも太陽の光は注ぐ。
微かに、優しく、痛みも無く。

もう思い出は、増えも消えもしない。
時代との折り合いもつけられず、
目的の見えぬ戦いで溢れた世界。
生まれて来る場所を間違えたと
幼き日々に明確に悟ってしまった。

母だけは私の全てを肯定してくれた。
それは唯一の救いであったと思う。
しかし大人というカテゴリーに分類される様になり、温室から下界にしっかりと放たれた時、歪み始めた。
音も立てずに深い闇は現れた。

人魚姫は滑稽だ。愚か過ぎる。
何故、人間になりたかったのだろう。
一人の男の為に、恋の為に、
人間なんかになりたいなんて。
一瞬の情熱で泡になるのに。

私は深海魚になる事を強く夢見た。
見つけては失う恋や愛というやつに、
随分と魂を削られては、
ほとほと嫌気がさしていた。
情熱を持って築き上げた分、
激しく苦しみ、もがき続けた。
それが醍醐味なんて思えた事か。

綺麗なものは儚く散り逝き、
見たくないものだけに囲まれた。
泪さえ枯れ果てて心は息を止めた。
人間とはなんて…。

「あるべき私の姿にお導き下さい」
やっとの思いで辿り着いた、
伝説の人魚の崖で海の主に願った。

低く響く深い老人の様な声は言った。
お前は二度と地上に戻れなくて良いのか。幾ら後悔しても人間には戻れぬぞ。しかし、記憶はそのまま、ただ泳ぎ続けるだけの海底を選ぶのか?

私は無言で頷いた。一刻も早く…!

良かろう。深海魚として生きてみろ。
もうお前は人間では無くなる。

全身に焼ける様な感覚と光を感じ、
次の瞬間、眼を開けると
私は私で無くなり、
私は私になっていた。

あぁ、やっと本物の自分になれた。生きるべき空間は優しく迎えてくれた。

もう私は人間の頃の自分の顔は思い出せない。今どんな姿をしているかも分からない。鏡なんて無いのだから。しかし形などに囚われなくて良いのだ。

ただ広がる自由と安らぎが私を許す。
許される悦び。許せる悦び。

人間として地上で生きていた頃、私が
最初に愛した男と、
最後に愛した男はとても似ていた。
曇りなき眼で真っ直ぐに未来を見つめる様な、感性豊かな優しい男達であった。酷く惹かれ合い、恋に堕ちた。

しかし純粋さ故の彼等の不器用さに
女である私は幾度も心を壊した。
男達との不確かな愛を守る為には
自分を護る事を諦めるしかなかった。
永遠なんてものは人間界になかった。

あぁ、懐かしいな。
もう私の事は忘れたかしら。
いきなり人間を辞めた私の事なんて
忘れて、誰かをまた愛したり、
同じ様に抱いているのかしら。
…どうか倖せであって下さいね。
なんて、願える訳も無いけれど。

揺ら揺ら。海底遺跡の周りを泳ぎ、
物思いにふけながら、微睡む。

私は深海魚。深い海に沈んで
時の流れ等、存在しない広い海で。
争いも正義も何も此処には無い。

人間を経験して良かったのかもと
沢山の過ちや傷跡を慰めながら、
私らしく、ただ生きている。
記憶と共に漂っている。

深海にて。

(2013.December)

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