リップクリーム

真冬の空気は凛として美しい。
同時に酷く乾燥して唇が痛く乾く。

今の自分にピッタリな歌が、一昔前にあった気がする…本だったかな…
あやふやな記憶を掘り返しながら、
彼女は歩く速度を少し緩める。

こんな感情を知る日が来るなんて想像出来なかった…
共感しなきゃ覚えてるわけないよ、
と胸の中の独り言に少しだけ笑う。
…貴方の為に私が出来るのは離れる事だけ。愛しているからさようなら…
なんて。
当時は陳腐な物語にしか思えなかったであろう、その歌だか、本だかをどうしても思い出したい。
先駆者の苦悩に触れたら、少しは慰めや励ましになるだろうか。

芯まで冷える薄暗い都会の夜。
恐らく長い冬になるのであろう。
春を遥か遠くに感じる。
今年初めての雪達が、彼女の帰り道を白く染めていた。音を失くしながら。

紐解いてはいけないと分かりながらも、彼と出逢った日を思い返していた。甘過ぎる禁断の果実を摘んだ日。

強烈に交わる空気をお互いが感じてしまった…あの空間の化学反応を何と呼べば適切なのかは今も分からない。
人生の中で何度もある事ではない。
一目惚れでも、好みのタイプでもなかったのに。
ただ、ずっと探して歩いて来たものをやっと見つけた様な。
彼女の魂は激しく震えた。

重ねる逢瀬の度、予感は確信に変わっていった。驚く程、景色は鮮やかに色付き、過去の痛みさえ麻痺する様な安らぎに包まれた。
どんなに交わっても満たし切れない、
底無し沼の様な求愛に至福を知った。

同時に彼が世界になっていく自分に恐怖も覚えた。狭く深く狭く深く…。

彼女は愛を知る人間だった。しかし、愛する術を知らなかった。守りたい気持ちと、激しく求めてしまう矛盾に葛藤と苦悩が折り重なり、いつしか精神安定だった彼への愛情すら、微妙に、着実に、脅威へ変貌した。

確信してしまったのだ。
彼の未来に自分が居る事が許されないと、ある瞬間、彼女は確信した。

彼の前から消える事が、この深い想いの答えであると。それが彼へ自分が与えられる最高の贈り物。

幾晩も慟哭して導いた残酷な未来に、
彼女はさらに自分を責めた。
伝えたい言葉は何も言えないまま、
立ち去る事でしか、彼の為になれない自分の存在さえ否定して。

まだまだ痛んでは締め付けられる胸をどうやって乗り越えて行こうか…
小さな溜息は彼女の大きな闇。
今夜もまた夢には見るのであろう。
あの頃の二人を。
目覚めたら泣いているのだろう。

遠くに住む親友の睡眠時間を長電話で削らせるのも気が引ける。母親に甘える気分にもなれない…確実に明日は出社出来ない顔になる。
そう、私はもう大人なのだ。
一人の男で世界を歪める位子供でも、
社会はもう私を大人として扱う。

少し贅沢なアイスを買って帰ろう。
飲めないお酒に飲まれるよりは健全だ。近くのコンビニに立ち寄り、自分を優しくさせてくれる物達を選び、
また白い息を吐きながら家路を辿る。

御守り代わりに持ち歩いていた、彼の忘れていったリップクリームをポケットから取り出し、乾いた唇に塗り噛み締める。血が滲んで変な味がする。
メンソレータムは苦手なのに彼のキスが蘇る。危うく荒々しいキスから始まった儚く尊い物語にそっと手を振る。

ごめんねも言えずにごめんね。
これで、ううん、これが一番良かったの。強く言い聞かせてるうちにまた涙が頬を伝う。彼女は綺麗に泣けない。
ただ、彼を壊すより、この愛が壊れる事を選べた自分を少し誇らしくも思えた。

運命ならきっといつかまた巡る。
でも永遠に巡らないなら、せめて忘れずにいたい、彼の横顔や、絡めた指先、叶えられなかった沢山の約束を。
皮肉な程、罪悪感にさえ愛しさが混じる。

彼はもう私を忘れただろうか。
覚えているとしたら、彼の瞼の中にいる私はどんな表情をしているだろう。

彼女はもう一度リップクリームを塗り、街角のゴミ箱にそれを捨てた。

深呼吸をして歩き出す。
彼のいない世界で生きるという戦いに勝てる気は、まだしていない。

しかし自分がいなくなった世界で、突き抜けて行く彼を描き、瞳を閉じた。

掻き集めた想い達をそっと閉じ込め、
彼女は少しずつ前を向く。
涙を流しながら歩き出す。

バイバイリップクリーム。
バイバイ可愛い二人の夢。
バイバイ。ねぇバイバイ?

こんなにもまだ逢いたい。


to be continued later.

(2013.December)

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